竹林軒:アーカイブ:日常

思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける(大宅世継)

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死んだネコの残したものは…… 床下から猫の白骨死体

cat2.jpgで、昨日それが無事に終わったわけだが、その作業中に大工の1人が、「猫のミイラが出てきた」と、外で庭木の植え替えをしていた私に叫んだのだ。猫のミイラ……。すぐにいって見てみると、床下に猫の白骨死体があった……

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渇水や われ泣きぬれて(はいないが)クモとたわむる

neko.jpgこのハエを狙って、ハエトリグモも窓に待機しているわけだ。ハエトリグモは、時々ジャンプしたり、くるりときびすを返したりして、なかなか動作がユーモラスだ……

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純粋な、批評の批判

kritic.jpgどんな芸術家でも、すべての作品が素晴らしいということはないのだよ。私は美術も好きでいろいろな展覧会にも行ったりしたが、モネやルノワールの駄作もたくさん見てきた。ベートーヴェンにだって駄作はある……

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いまさらながらDVD三昧の日々

DVD.jpg最近ネットで展開しているレンタルDVDショップがあるという話を聞いたので、さっそく覗いてみたところ、ありました、捜し物。それで早速入会して、借りてみたというわけだ……

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喫茶店と秋風と栗田ひろみ

kurita.jpg栗田ひろみと井上陽水が夫婦だったというのはまったく初耳で、でもまんざら間違いでもなさそうな組み合わせではある……

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百円ショップを巡りながらこう考えた

hyakuen.jpgモノには本来の対価があると思っている。価格破壊などといって本来支払われるべき対価が支払われなくなると、結局そのしわ寄せは自分のところに返ってくることになる……

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2005年3月16日、記

死んだネコの残したものは…… 床下から猫の白骨死体


(写真と本文は関係ありません。)
cat1.jpg 引越しの準備やら引越し先の手入れやらで大忙し。
 さて、引越し先の床下があまりにひどい状態であることは2月25日に記したとおり。それで、それを修復することにした。といっても自分でやるわけでなく、工務店に依頼したのだ。さすがに工務店、問題の床下も、瓦礫を撤去し、束石をコンクリートで設置し直して、万事うまく片づいた(ああ、出費ばかりで頭が痛い)。で、昨日それが無事に終わったわけだが、その作業中に大工の1人が、「猫のミイラが出てきた」と、外で庭木の植え替えをしていた私に叫んだのだ。猫のミイラ……。すぐにいって見てみると、床下に猫の白骨死体があった。骨だけがキレイに残り、周りの肉などは分解されて黒い埃状の物体になって周りに散乱している。状況を想像してみてほしいのだが、そりゃあギョッとする。
 で、しばらくそのままにして、庭木の作業にかかっていたのだが、穴を掘りながら少し落ち着いたところで、これも何かの縁だから埋めてやろうと感じるようになった。それで大工氏にその旨告げると、安心したように「そうかい」と言った。たぶん、彼も片づけるのがイヤだったんだろう。
 スコップで2回に分けて庭の隅まで持って行き、庭木と庭木の間に深さ20cmくらいの穴を掘って埋めてやった。その際よく観察したのだが、しっぽが長く小柄な猫で、寝そべった状態でそのまま死んだのではないかと想像できた。おそらく穏やかに死んだのではないか……と(勝手に)結論づけることにする。
 私も子どものときに猫を飼っていたので知っているが、よく言われるように猫は飼い主に「死に目」を見せないものだ。引越し先の家の近所にやたら猫を飼っている家があるが、数年前にそこの猫が床下に入って、飼い主の目を避けて最期を迎えたのではないだろうかと想像される。なにやらその猫に意地らしいものさえ感じるではないか。
 動物の白骨死体を見たりすると、かわいそうだと感じる人が多いと思う。でも「のたれ死に」は動物の本懐であると私は思う。私自身も「のたれ死に」することに対してはそれほど恐怖感はないのだ。動物たるもの「のたれ死に」こそ真の死に方だ。病院で死ぬというのもずいぶん不自然な気がしている。
 「猫の死体が床下にあった家」というと、化け猫とか猫の亡霊とか不気味なものを連想する人もいるだろうと思うが、私はむしろその猫に何かの縁を感じた。荼毘に付して(火葬にはしてないけど。まあそんな気分だ)埋めてやったのだから、良いことをしたとさえ思っているのだ。また、飼い主である私の目を避けて死んでいったであろう、かつての飼い猫のことに思いを馳せたりもした。
 まあそういうわけだ。話はこれだけだが、まあ何というか、いろいろある家だ、と改めて感じた次第……。

2005年5月17日、記

死んだネコの残したものは…… 続報


(写真と本文は関係ありません。)
cat2.jpg 前にこのブログで紹介した、床下の猫の話(上記)の続報。
 昨日近所の猫好きの人と世間話をしていたら、この家(今私が住んでいるトコ)の前の住人が猫を飼っていて、その猫が3年ほど前に行方不明になったという事実がわかった。前の住人の方が猫好きだったらしく、猫を1匹飼っていてずいぶん可愛がっていたらしい。ところが3年ほど前から急に姿を見せなくなり、飼い主の方(そしてこの近所の猫好きの人)もあちこちかなり探し回ったのだが、結局見つからなかったというのだ。
 3年ほど前というのが、床下の猫の白骨化した状況と見事に一致する。
 とすると、あの猫は、この家で飼われていた猫で、その飼い主の住んでいる下で、飼い主から姿を隠して死んだわけだ。死期を覚悟した猫はこっそり床下に入り、あちこちを探し回る飼い主の呼び声を遠くで聞きながら、涙を流して(猫だから実際には涙を流さないけど)心の中で飼い主に別れを告げていたんだろう(猫だから実際には何にも考えてなかっただろうが)。
 映画の『砂の器』(1974年、松竹)で、英夫少年(主人公の少年時代)が持ち前の放浪癖のために家を飛び出し、養父の三木巡査(この人がまた心優しい人なんだ)が「ヒデオー、ヒデオー」と叫びながらあちこちを一生懸命探し回るシーンがあるが、それを思い出した。このとき、近所に身を隠していた英夫少年は、巡査の呼び声を近くで聞きながら涙をボロボロ流すのだが、この猫のケースもそれに近い状態だ。
 猫の白骨が床下から現れたときは、正直かなりギョッとしたが、なんだか涙ぐましいいい話に落ち着いた。この家の前の住人も1年半ほど前に亡くなり、あの世(というものがあればだが)で猫と再会を喜び、猫が意外な場所で(おそらく)安らかに死んでいたことを知って涙ぐんだかもしれない。前の住人の方と猫の冥福を祈りたい。

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2005年6月27日、記

渇水や われ泣きぬれて(はいないが)クモとたわむる


haetori.jpg ←「日本ハエトリグモ研究センター」から勝手に拝借
 梅雨だっちゅうのに西日本ではぜぇんぜん雨が降らない。このペースだと近々断水になりそうだ。
 断水は十数年前に経験してから、ずいぶん経験していない。その頃は毎年のように水がない水がないと言っていたが、それ以降、近所で水が枯渇するという状況はあまりない。
 断水の時に一番困るのは水洗便所で、前の断水経験時も水洗便所付きのアパートに住んでいたので、なかなか厄介だった。その反省から、その後くみ取り便所の家に引っ越し10年住んでいたのだが、その間、幸か不幸か断水を経験することはなかった。それで今年、越してきた先が水洗便所の家だ。確かに清潔で匂いもあまりしないが、断水するととたんに機能しなくなる。脆弱なインフラと言わざるを得ない。この調子で断水まで行くと、またまた面倒なことになる。あー憂鬱。
 ちょっと前まで住んでいたくみ取りハウスは、くみ取りであるがゆえ、夏になるとショウジョウバエが便槽から大量発生して、窓なんか閉めていた日にゃ、すごいことになる。扉を開けたとたんゲッ!ってなもんだ。とりあえずいったん窓を開けて外に出てから、しばらくしてまた入ることになるのだが、それでもけっこうな量のハエがブンブンブンで、こんな中でしゃがんだりしたら身体のあっちこっちにハエがとまって、気色悪いったらありゃしない(便槽のウジからかえったヤツだからね)。そんでもって、手で振り払いながら用を足すわけだ(汚い話ですみませんね)。
 さて、しゃがんでいるとき、時々手で振り払いはするが、おおむね手持ちぶさたであるため、するともなくショウジョウバエを観察したりすることがある。ショウジョウバエは、大体明るいところを好むようで(「正の走光性」っていうんでしょうか)、窓のあたりにひっついてるのが圧倒的に多い。そうすると、このハエを狙って、ハエトリグモも窓に待機しているわけだ。ハエトリグモは、時々ジャンプしたり、くるりときびすを返したりして、なかなか動作がユーモラスだ。にわかショウジョウバエ研究者と化しているこちらは、研究対象をハエトリグモに転換することになる。
 ハエトリグモを見ていると、ショウジョウバエをとって食べることもあるのだが、よくよく見ていると、結構どんくさく、狙った獲物の10匹に9匹くらいは失敗している。
 観察していてわかったことだが、ハエが少し離れている場所にいるときは、まったく食指を動かさない。やや近づいてくると臨戦態勢にはいるが、それでもまだ動かない。かなり近づいて、自分の身体の長さと同じくらいの距離まで近づくと、おもむろに飛びつき捕まえる。だが、それでも逃げられるケースがあり、なかなか大猟になることはないようだ。
 ここで話変わって昨日のことなんだが、パソコンの液晶モニターにこのハエトリグモがくっついていたわけだ。そのとき画面に表示されていたソフトはアップルのiTunesだった。何のソフトだったかはあまり関係ないのだが、とにかく白い部分が多かったと想像していただきたい。で、このハエトリグモ、どうやら、カーソルをハエに見立てて(というか、ハエと取り違って)狙っているようなのだ。考えてみると、この液晶モニターの状況というのは、便所のサッシ窓とかなり似た状況である。背景が明るく、しかもあちこちに小さい黒いのが点在しているのだ(便所の場合はハエ、液晶の場合は文字やカーソル)。
 それで試しに、マウス・カーソル(このソフトでは矢印形)をハエトリグモのそばまで持って行くと、なんと、予想に違わず、ハエトリグモはカーソルに飛びついた。こちらも少しビックリして、おもむろにカーソルをクモから遠ざけると、なんとクモはまたカーソルを狙って飛びついてくる。
 今度はカーソルを、クモからかなり離れた場所に移動してみた。そうするとクモは、じっとして動かなくなった。以前便所で観察したとおりだ。近いヤツだけ狙うのだ、こやつらは。それで徐々に近づけると、再び臨戦態勢になる。少しずつ、カーソルに近づいてきて、ある程度の距離になったら飛びつく。こちらはあわててカーソルを遠ざける……と、こういう遊びをしばらくやっていたわけだ(クモと心が通じ合った瞬間……)。
neko.jpg かつて、WindowsのソフトでNekoというお遊びのフリー・ソフトがあった。カーソルを動かすと、それをめがけてアニメーションのネコが追っかけてきて、カーソルを捕まえるというものだった(これを延々と繰り返す)が、まあちょうどあんな感じだ。または、実際の猫の前でヒモをブラブラさせるとじゃれて飛びついてくるという状況にも似ている。
 結局10分ほど遊んでいたが、クモの方もいい加減偽物だってことに気付きそうなものだが、いつまでも追っかけているので、かえって気の毒になった。餌を捕まえたつもりになっているのに実態がないというのが続いているからね。それで、モニターのスイッチを切って、そこでお開きにしたというわけだ。指をクモに近づけると、オタオタしながら消えていった。
 ハエトリグモについてネットで調べたら、「そのサイズと円らな瞳のおかげで「クモは苦手だけどハエトリだけは可愛い」という人も多い」(Wikipedia)と書かれていた。「日本ハエトリグモ研究センター」などというホーム・ページまである。また、別のホーム・ページ(のこぎりくわがたの森「もへっ! ハエトリグモ」)には、液晶モニター上でカーソルを狙うクモの記述があった。この人は、マウスで遊んだとは書いていないが、ハエトリグモとNeko遊びをやったことのある人は意外に多いのかも知れない、などと思いながらも、またまたハエトリグモが液晶上に登場するのを心待ちにしている私であった……

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2006年12月20日、記

純粋な、批評の批判


(写真と本文は関係ありません。)
kritic.jpg 昔、黒澤明の映画が好きだという人と話す機会があって、そのときに相当険悪なムードになったことがある。というのは、彼がクロサワ作品をことごとくベタボメする(『夢』とか『素晴らしき日曜日』までだぞ)んで、こちらもガマンできなくなって、多くのクロサワ映画は感性が欠如していてクサくて見るに堪えないということを言ってやったわけだ。もちろんすべてけなしたわけではないよ。『七人の侍』とか『椿三十郎』あたりは私も高く評価しているので、それはきちんと表明したのだが、彼にとっては黒澤明は神でその作品はすべてが最高らしく、ちょっとでも批判されることが我慢できないようなのだった。そのときは、他にも人がいたため殴り合いになるようなことはなかったが、その後彼は、別の黒澤好きな人とばかり話をするようになって、私の存在を完全に無視するようになったのだな。ハハハ。
 だが言っておくが、A氏よ!(仮にA氏としておきましょう、この人を)
 どんな芸術家でも、すべての作品が素晴らしいということはないのだよ。私は美術も好きでいろいろな展覧会にも行ったりしたが、モネやルノワールの駄作もたくさん見てきた。ベートーヴェンにだって駄作はある。それは見る(または聴く)側が自分の目で見、耳で聞いて自分の頭で考えれば、誰にでもわかることだ。映画でもそうだ。私は小津安二郎の映画が好きだが、それでも素晴らしいと言えるのはやはりほんの一握りである。半分以上は駄作だ。だが傑作が数本でもあれば、それだけで素晴らしい作家と言えるんじゃないか。「千に一つの名品のことを佳作と呼び、万に一つの名品のことを傑作と呼ぶ」というような話をかつて現代国語の先生から聞いたことがある(正確かどうかわからない)が、数十本のフィルモグラフィの中で、万に一つの名品が2本あればそれだけですごいことだと思う。
 たぶんA氏は、いまだにクロサワ大好きなのであろうが(もう20年以上も会っていないのでね)、自分の頭で考えないといつまで経っても進歩しないよ、とこの場を借りて言っておこう。

 本やCDをネットで販売している「アマゾン」にカスタマーレビューというコーナーがあって、いろいろなシロートが批評を書いている。以前はなかなか鋭い評が多いなと思っていたのだが、実際にそのCDや本を聴いたり読んだりしてみると、内容がまったくピントはずれということが結構多いことに最近気が付いてきた。
 実は私もカスタマーレビューに何度か書いたことがあるため、同様の批判は受ける可能性が十分にあるわけで、あまり大きなことは言えないのだが、でも少なくとも自分の目や耳で見たり聴いたりして、自分の頭で考えたことを書くというのは最低限のマナーじゃないかなと思う(現に私はそうしてるし)。このカスタマーレビューを読む側は当然、そのCDや本を聞いたり読んだりした人が書いていると思っているだろう(少なくとも私はそうだった)。ところが実際は、まったくいい加減な聞きかじり評や予想だけで書いた期待評が多いようだ。そもそもまだ販売される前のCDにレビューが付くというのがおかしい。「期待で☆5つ」などと書かれていると「君の期待をここで表明して何になる?」とつっこみをいれたくなる。それは「レビュー」ではなく「プレビュー」ではないかい?

 先ほどのクロサワの例みたいに、自分の頭で考えていないものも結構ある。批評家がよそで言っているようなステレオタイプな内容を、何のてらいもなくぬけぬけと書くなんてのは恥ずかしいことだ。そういう批評は、たとえうまく書けていたとしても、正しい評価ができていない。知性は十分でも感性が足りないということだ。批評というのは感性を表明する場だとここで宣言することで、これを自戒としたいと思う。

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2005年10月27日、記

いまさらながらDVD三昧の日々


DVD.jpg 最初はケッなどと思いながら使い始めたらその便利さに意外に驚くというものがある。
 コンピュータの世界でいうと、USBインターフェースがそうだった。かつてMacではADB、DOS(Windows)パソコンではシリアルインターフェースでマウスをつなげていて、USBが最初に登場した頃は、なんでいまさらUSBなんぞに乗り換えなあかんねんと思ったものだが、いざ使い始めると、抜き差ししても再起動が不要だったり、いくつもつなげられたりなどとっても便利で、もうADBやシリアルには後戻りできないと思ってしまった。自身の不明がお恥ずかしい。
 マウスのスクロールボタンもそうだ。最初私がこのボタンを知ったのは、マイクロソフトマウスに搭載されていたヤツだったが、「マイクロソフトがまたケレンやりやがって、ケッ」と思ったものだ。だが試しに使ってみるとこれが便利で、もう手放せなくなった。これもお恥ずかしい。最近ではコードレスマウスが同じような感じである(これも便利です)。
 で、DVDについても、確かにメディアが小さくて画像がキレイかも知れないが、ビデオで十分でしょ、とずっと思っていた。だから特にDVDプレイヤーも必要だとはあまり思わなかったし、DVDを借りたり買ったりしてもパソコンの小さな液晶画面で見てたわけだ。それに、液晶画面で見ると画像が荒れて、とてもじゃないが良いものとは思えない。DVDは絵がキレイじゃなかったのかなどと突っ込みを入れたくもなる。
 ところが、テレビ画面でDVDを見ると全然違う。今まで見ていた映像との違いがよくわかる。なるほど、これがデジタルデータか……と感心することしきり。こうして私はDVD派に転向したのであった。お恥ずかしい……
 DVDは、これまで買ったものも何枚かあるが、劇映画はさすがに買う気にならず、ほとんどレンタルショップで借りている。最近の新作はビデオだけでなくDVDで出るものも多いので、そろそろDVDも市民権を得てきたのだろう。だが、近所のレンタルショップは(どこもそうだろうが)売れ筋のものばかりで、私が好むタイプの(マイナーな)ものはあまりない。一方で、最近ネットで展開しているレンタルDVDショップがあるという話を聞いたので、さっそく覗いてみたところ、ありました、捜し物。それで早速入会して、借りてみたというわけだ(ちなみに捜し物ってのは『タカダワタル的』です。結構メジャーだと思っていたが、近所の店にはどこにもなかった)。
 実は、ネットDVDレンタル店も最初はこんなもの利用する人がいるのかと思っていたのだ。だが、実のところ、在庫の検索ができるというだけで、大きなメリットになる。この辺はAmazonのケースと同様。結局は値段と手続きだけの問題になる。
 私が利用しているネットレンタルDVD店では、1月2,000円で何枚でも借りることができる。ただし、一度に手元に送付されるのは2枚。返却期限はなし。見終わったら、送られてきた封筒に入れて郵便ポストに投函する(切手はすでに貼付済み)。先方に届いたら、確認メールが送られてきて、その時点で新しいDVDを借りられるようになる。DVDを借りる手続きは、すべてホームページで行う、とまあこういう感じである。新しいDVDを申し込んでから、手元に届いて、さらに1日手元に置き、返送したものが先方に届いて、それから次のDVDを借りられるようになるまでの期間、要するに1回のサイクルに要する期間は、最短で4日間だ(地域や郵便事情によって変動する)。とすると、この方法だと、30日/4日で、1月に約7サイクル利用できる。7サイクル×2枚で、計14枚のDVDを1カ月で借りられるという計算になる。今、一般的なレンタルショップで、安いものだと1枚1週間100円なので、それと比べると若干高いことになる。それでも値段は法外ではないだろう。良い線いってるんじゃないか? 価格設定はなかなか絶妙だと思う。
 実際に利用してみて感じたのは、なんといってもネット上で検索できるというメリットだ。レンタルビデオ店のフロア内を探し回るのは結構大変だし時間もかかる。ネットの威力を存分に発揮しているというところだ。このシステムは、今後、爆発的に普及するかも知れないという気もしている。あとはソフトの種類と量だが、その辺の折り合いが付けば、今以上に広く受け入れられることになると確信できる。でも、ホントのところはまだラインナップに不足を感じているのだよ、私は(姫田忠義のDVDなんか是非入れてほしいんだがね……無理か)。

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2005年9月9日、記

喫茶店と秋風と栗田ひろみ


kurita.jpg 久しぶりに行きつけの喫茶店に行った。
 私は、喫茶店や飲み屋の主人と話し込むことなど人生の中でほとんどなく、したがって行きつけの飲食店もこれまでほとんどなかった。であるから、この喫茶店は私にとってかなり特殊だ。
 でまあ、今日は石川セリの話などしていたのだ。石川セリは井上陽水のヨメだなどと私が言っていると、マスター氏は、「へえ」などと言いながら「陽水は確かアイドルと結婚してましたねえ」と言う。
 私が「石川セリのこと?」と聞くと、「いや、石川セリと結婚する前で、もっとアイドルです」とおっしゃる。「確かクリタなんとかとか……」
 アイドルで「クリタ」といえば栗田ひろみしかいない。「栗田ひろみですか?」と聞いたら、「よく憶えていませんが、アイドルです」

 栗田ひろみと井上陽水が夫婦だったというのはまったく初耳で、でもまんざら間違いでもなさそうな組み合わせではある。
 で早速、ネットで調べてみると、やはり事実のようで、なんでも栗田ひろみの主演映画『放課後』のテーマソングが陽水の「夢の中へ」だったそうで、なるほどそういうつながりかと納得した。
 世代的なものもあるのだろうが、栗田ひろみの名前と顔はすぐに思い出せるが、思い入れはそれほどない。だがもう少し上の世代になると、それなりに入れ込んでいたようだ(テクニクスの広告が印象的だったそうで)。
 私が大学の卒業を控えていたある日、クラブの追い出しコンパに招待され出たのだが、そのときの1年生に「栗田」という名前の女性がいた。「栗田です」などと自己紹介されると、私と同世代の男達は一様に「栗田ひろみ!」と口をついて出ていた(私もね)。もっとも、その人は年齢が大分下だったので、そう言われても「??」だったようだ。で、その女性が、同級生から「クリちゃん」とか「クリ」とか呼ばれていたのだ、そのとき。私はそのとき、彼女を「クリちゃん」と呼んでいた1年生の男に、そっと(栗田さんに聞こえないように)「クリちゃんはまずいんじゃないの……」と言うと、彼はしばらく沈黙し「……僕もそう思うんですけどね……」とポツリと言った。
 まあ、それだけの思い出話なんだが、「栗田ひろみ」という名前はそれくらい我々の脳髄に強烈にインプットされていたということ!

 で、喫茶店で、そういうたわいもない話をしてから、外に出た。私は習慣的に「暑っ!」とつぶやいていた。だが、外はさわやかな秋風が吹いていた。秋の空が心地良かった。

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2005年4月4日、記

百円ショップを巡りながらこう考えた


(写真と本文は関係ありません。)
kusamakura.jpg 先日、ダイエーに掃除用品を買いにいったところ、同じフロアに百円ショップがあって、ついでにそちらも覗いてみた。で、驚いたのが、ほとんど同じような商品が1/2から1/3の値段で売られているということ。ずいぶん迷ったが、結局百円ショップの商品を買うことになった。どちらも中国製だったし、同じように安っぽい風情があったし(これは言い訳だが)。
 しかし百円ショップでものを買うのは実際のところかなり抵抗がある。私は、モノには本来の対価があると思っている。価格破壊などといって本来支払われるべき対価が支払われなくなると、結局そのしわ寄せは自分のところに返ってくることになる。
 たとえば、家電を量販店で買えば、近所の電器屋で買うより価格は安い。しかし、故障したらこちらで手配しなければならないし、場合によってはメーカーに送り返さなければならない。そんなわけで箱もとっておかなければならない。簡単な修理なども、懇意の電器屋さんであればチョチョッとできるが、メーカーに直接頼むとなると、宅配を手配したり何かと不自由なものである。
 電器屋さんに支払うマージンを節約して、電器屋さんが商売できなくすることが本当に良いことなのか。それも時代の趨勢と言ってしまうことが正しいのか。
 私も以前は、電化製品は量販店で買っていたが、ここ数年は極力懇意の電器屋さんから買うことにしている。ちょっとした修理でも頼みやすくなるし、保守の費用や故障時の送料、箱の維持費用などをトータルで考えると、結局安くつくんではないかとも思える。
 今回も新居にBSを入れることはほぼ断念していたのだが、電器屋さんが、使っていないアナログBSチューナーをタダで譲ってくれることになり、アンテナ代だけでBSを導入できることになった(前も書いたが、アナログBSチューナーは現在販売されておらず、BSを見るにはデジタルチューナーが必要。これが5万円以上する)。したがってドキュメンタリー評も継続できることになった。メデタシメデタシ。
 コストなんてのは、長い目で見なければ本当のところはわからないものだ。原発推進派が、原発はコストが安いなんてことをぬけぬけと言いはなっているが、核廃棄物の処理費用や今後数百年にわたる管理費用を考えると、コストが安いなんてことは口が裂けても言えないはずだ(コスト → ∞)。近視眼的にものを見ると正しいものが見えないのだ。
 第三世界の商品を、買いたたくのではなく正当な対価で買い、生産者にも潤っていただき共存共栄をはかろうとするフェアトレードという運動がある。グローバリズムの対極にある概念であるが、売り手と買い手が共存共栄をはかるというのは、いたって自然で、結局はお互いのためになるんじゃないか。買い手が売り手を収奪してしまうと、売り手は事業を続けられなくなり結局取引が続けられなくなる。価格破壊はある意味でそういう現実を生み出しているだけだ。
 どうして現代人は正当な対価を支払うことに躊躇しているのか。自分一人が栄えてもしようがないんじゃないか。モノには正当な対価を支払う。支払うだけの金を工面できなければ、端から買わないようにする。そういう生活を送っていれば、家の中にモノが異常に増殖することもないし、みんなが円満になる。
 こういうようなことを百円ショップで考えたわけだ。

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