蛍とムカデと雑草と……みんなちがってみんないい


 


町中から田舎に越してきたせいで、自然を身近に感じることが多くなった。
歩いて数分のところにちょっとした川があって、どうやらそこに蛍が出るらしい。上流にダムがあるせいか水量も少なくなって、水面にはアオコがいっぱいで少し哀れを誘うのだが、家族はこの間見に行って十数匹確認できたという。僕は昨日一人で見に行ったが、まったく見ることができなかった。まだ少し明るかったせいか、それとも日頃の行いが悪いせいか。でも家の近所に蛍がいるというのも悪い気はしない。
昨日は子供がタマムシを取ってきた。タマムシなんて、子供時代に一度だけ(といっても大量に)捕まえたことがあるが、生で見たのはそれ以来数十年ぶりだ。近所の桜の木にへばりついていたんだそうだ。
朝晩、ポロッポポロッポという、鳥の鳴き声が聞こえてくる。僕自身、野鳥にはまったく興味がなかったので、この鳥が何であるかまったくわからなかったが、CD版の広辞苑(鳴き声が収録されいる)で調べたら、ホトトギスであるということがわかった。ホトトギスなんて、「鳴かぬなら」の句でしか知らなかったが、なるほどこういう鳴き声か……と齢四十にして初めて知った。ちなみにこの鳴き声は「「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」と聞こえる」(広辞苑より)らしいが、まったくそんなふうには聞こえない、僕には(どちらかというと「ほととぎすだあ」と聞こえる)。この言葉を当てた人は、相当なソラミミストなんだろう。
またまた話は変わるが、庭の木(数種類)の幹に、白い綿毛のようなものがうじゃうじゃとついているのに気がついた。ウゲッ、伝染病か!と思って途方に暮れかけたが、ネットで調べると、どうやらワタムシ、ユキムシなどとよばれる虫で、アブラムシの一種らしい。大きな被害を出すこともないという。別名「しろばんば」というんだそうだ。「しろばんば」といえば井上靖の小説のタイトルにもなっているが、ははあ、これがしろばんばか……と感心した。こちらも齢四十にして初めて知ったわけだ、しろばんばの本当の姿を。ちなみにこの小説は読んでいない。
もちろん自然が近いということは良いことばかりではない。蛍やタマムシもいるが、家の中にもムカデが出てきたりする。この間はそれで家中大騒ぎになり、大捕物が展開された。
この虫(草)が良くてこの虫(草)が悪いというのは、人間の都合であるからして、自然と共存するのならある程度それを受け入れていかなければならない。もちろん毒虫を身近に置いておくのはいい気がしないので、それなりの対応をしなければならないが、すくなくとも殺虫剤や除草剤を撒くという安直な手だてに頼ってホロコーストを現出するなどというのは自殺行為だ。身近な環境を破壊するだけではなく、ひいては自分に返ってくるのは明らかだ。
雑草だって敵視するんではなく、名前を調べるなどしたらそれなりに愛着がわくというものだ。
そういうわけで、『校庭の雑草図鑑』(上赤弘文著、佐賀県生物部会編)を買って雑草の名前をいろいろ調べている。雑草や野草の図鑑は図書館でいろいろチェックしてみたが、掲載されている種類が多すぎて調べにくいものが多い。種類は少なくても良いから、必要十分なものはないかということで、この本に行き着いた。この本は、名前の由来なども併記されているので、名前を憶えるのに都合がよい。非常に良い本だ。
それからこの本の中で、雑草について「雑草は人間が作り上げた環境(定期的に攪乱し、他の植物を排除した環境)でしか生きられず、その土地を人間が放棄し攪乱が無くなると、他の植物が押し寄せてきて簡単に置き換わってしまう」と書かれている箇所があった。つまり「雑草」は、更地から森林へ遷移する上でのトップ・バッターということになる。やがて他の野草に取って代わられ、木が生育できる環境になると木が生えて、森林へと形を変えていくというのだ。
近所の川原などで、行政が定期的に雑草を大がかりに刈っているが、三角州になっている場所などどうしても手が入りにくい箇所があって、そういうところで、草の中に低木がちらほらと混じっていることがある。これなどはおそらく森林への遷移の過程にあるんだろう。どういう植物、動物にも自然の中で役割があるということだ。雑草にもだ。人間に不都合だからといって、何でも根こそぎ刈り取ってしまうんではなく、我慢できる範囲で共存すべきなんだろうなあと思う。どんな生き物にも自然の中で果たす仕事があって、それぞれが違っているというわけだ。金子みすずではないが「みんなちがってみんないい」のである。

投稿日: 土曜日 - 6 月 18, 2005 12:05 午後          


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