思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける(大宅世継)

批評、随筆、芸術のアーカイブ・サイト……竹林軒

「竹林軒出張所」選集:歳時記

たまに今日のように暑いと何だか新鮮である。こういうのが1週間も続いたら、カンベンしてください、私が悪うございましたというような気分になるんだろうが、まだまだ知れている……

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まさに「陽差しが痛い!」という感覚であった。こんなに暑いと、丈夫だと自負する僕でも、熱射病になりそうだ。ちなみに熱射病というのは熱中症のことである。

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そういう人間なので、相手が虫であっても殺したり傷つけたりするのには相当気が引けるのである。蚊やスズメバチなど攻撃的な昆虫であれば、こちらも割り切って逆襲するが、特に攻撃性がないものについては極力殺生したくないと思っている。

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夏の終わりになって、アシナガバチが大挙して軒下に集まってきた。当初は大変興奮していたようで、そこらあたりをブンブン飛び回っていたが、数日経って落ち着き、軒下にいくつかのグループを作って集結している。

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「竹林軒出張所」選集

2009年の歳時記 夏から秋

2009年8月3日

 昼間に出かける用事があったが、外に出た途端、久しぶりにアチィ!と感じた。
 今年はどう見ても冷夏のようで、猛暑もせいぜい8月だけかと思わせるような気候である。たまに今日のように暑いと何だか新鮮である。こういうのが1週間も続いたら、カンベンしてください、私が悪うございましたというような気分になるんだろうが、まだまだ知れている。今日なんか暑いと思ったのに最高気温32゜Cだから、去年であれば涼しい日ってことになるんじゃないだろうか。
 暑かったので記録のために写真を撮ったが、全然暑そうに映っていない。今日持っていったカメラにはファインダーがなく液晶で確認しながらシャッターを押すようになっているのだが、いつまで経っても、カメラから顔を離してシャッターを押すという操作に慣れない。うまく撮れないのはそのためかも知れない……。
 カンカン照りの感じがまったく出ていなかったので、イメージソフトを使って色調を操作し、それらしくした。

  それらしくそれらしくした猛暑かな

  ファインダーを覗いてこその写真かな

2009年8月6日

空を見上げるとなんとなく秋の気配を感じる。まだ夏が来たばかりなのに気のせいかと思っていると、暦の上ではもう立秋(8月7日)と来た。今年は秋の訪れも早いのか……。
 秋みたいな風が心地良く、いつもと別の道を歩いた。

  青空に秋を感じて遠まわり

2009年8月17日

 午前中は、さわやかな風が吹き、秋を思わせるような心地よさだったが、昼近くから夏の暑さが戻ってきた。
 街中でも蝉の声が響き渡っている。自転車で街を走り回っていたところ、アブラゼミが僕の頬にぶつかって、ジジジといいながら飛び去っていった。蝉が顔にぶつかったのは生涯初めてである。よほどマヌケな蝉だったのだろう。そこそこの痛みが頬に残ったが、加害者はとうに立ち去っているので、怒りのやり場はすでになくなっていた。
 そのまま川縁の遊歩道に入ると、蝉の死骸があちこちに落ちている。一瞬哀れみを誘うが、考えてみれば彼らは天寿を全うしていることになる。蝉はその生涯のほとんどを土中で過ごし、生涯の最後に生殖のために地上に出て来て、数日したら死ぬという。だから地面に亡骸が落ちているということは、捕食生物に食べられることもなく、おそらく(いわば老衰で)力尽きて落ちたんだろう。まさに大往生ではないか。後は身を蟻に託すだけである。こうしてかれらは現世の舞台を去るのであった。

  ゆく夏や蝉のなきがら経の声

自然界では、のたれ死に、すなわち大往生。

2009年8月24日

 8月の終わり頃、見たところ、灼熱だった前日と変わらないのに、空気だけがひんやりと涼しく、「あ、秋……」などと感じる日がある。気象学的に見れば、「大陸の高気圧が張り出して冷たい空気が上空に流れる」ということなんだろうが、そういう言い方をすると季節感も何もない。そういうマクロ的な見方ではなく、もっとミクロ的に感じるのが詩というものである。
 ともあれ、どうやら今日がその日に当たるようで、外はカンカン照りであるにもかかわらず、空気がなんとも心地良い。

  涼風にまばゆき光も秋模様

 空の色も心なしか透明度が深いように感じる。

  心地良き空気に空の青も濃く


 今年は例年に比べ生活が厳しく、あまり明るい気分にもなれないが、季節は同じように過ぎ去っていく。自然は同じように繰り返すのであって、違うのは主観のみである。

  憂き身にも涼やかな風の通りゆく

2009年8月28日

 今日はいろいろ予定を立てていたにもかかわらず、まったく無為に過ごしてしまった。むなしくって仕方ない。

  一日を無為に過ごすも蝉時雨

 朝からなんとなく気分が優れなかったが、今日のように空がどんよりしていると、むなしさもひとしおである。ンモーッ!
などといろいろ考えているうちに、用事があるにもかかわらずそれができないからむなしさを感じるのではないかとふと気が付いた。はなから用事がなければ、無為に過ごしていてもむなしいという感覚にはなるまい……。というわけで、今日ははなから用事がなかったことにする。

  虚しさを捨て去るために虚無になり そうすることすら虚しと映る

 まったくもってなんのこっちゃである……

2009年9月2日

 9月になったにもかかわらず、昨日は変な1日だった。生きている実感があまり伴わないというか、時差ぼけみたいな感覚というか……。歯医者の予約まで忘れてしまうし、1日何をやっていたんだかよくわからないような茫洋とした感覚であった。
 今日は朝から空が秋色で、あまりに美しく、気持ちまでシャキーンとするようだ。どこかに出かけたくてうずうずするが、こんな日に限って家でお仕事だ。

 「水溜まりをのぞき込んでいるうち 頭がクラクラして 危うく空へおちるところだったよ」と言ったのはやまだ紫。
 「智恵子は東京に空が無いという」と高村光太郎は言う。
 「青空みたら 綿のような雲が 悲しみをのせて 飛んでいった」と歌ったのは武満徹だ。
 だから何だと言われても困るのだが、空はいろいろな思いを呼び覚ますんだろうということなんですね、これが。

 どこかに出かけたい、外に出たい、空の下にいたい……そういう1日でした。

 秋空や 気持ちばかりが野を駆ける

2009年9月、記
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「竹林軒出張所」選集

今日の歳時記 「暑いっちゅーねん」編


 1日中カンカン照りで、昼間外に出ると、日の光が肌に差し込むようで、まさに「陽差しが痛い!」という感覚であった。こんなに暑いと、丈夫だと自負する僕でも、熱射病になりそうだ。ちなみに熱射病というのは熱中症のことである。先日、小学生の息子に「熱射病に気をつけろよ」と言うと、「今は熱中症とも言うけどね……」と返されてしまった。そう、今は「熱中症」である。「熱射病」という言葉はおそらく「日射病」から派生した言葉だろうが、「日射」が正しいのはわかるが「熱射」という言葉には非常に違和感があった。だから「熱射病」という言葉も嫌いであまり使いたくない言葉だったのだ。だから「熱中症」という用語は大歓迎の言葉で、本当はこちらを好んで使いたいところだが、悲しいかな、これまでの習慣でなかなか「熱中症」という言葉が出てこない。
 「熱中症」は別だが、「統合失調症」とか「認知症」とかの言葉の言い換えは、ゴマカシみたいで非常に嫌な気分がする。要するに差別的なニュアンスがあるのでこういう言葉に言い換えたということだろうが、なんとなくNHK的な事なかれ主義を思わせる。「認知症」という言葉も大分定着してきて、ちょっと前みたいな違和感が少しずつ消えてきているが、やがてはこれがそのものズバリを差すようになるんで、差別的なニュアンスも出てくることになる。僕も身内に認知症患者がいるが、たとえば自分と同じクラスに、イタズラ好きのちょっと鈍感な中学生でもいたら「ヤーイ、ニンチショ~!」などと言われるんではないかと思う。そうなると、またこの言葉を別の言葉に置き換えて言うなどということをするんだろうか……などと要らぬ心配をしてしまう。
 3、40年ほど前のドラマや映画を見ると、日常会話で「きちがいじみた」などという言葉が普通に出てくるんだが、最近この手の言葉を聞き慣れていないので、見ているこちらがドキッとしてしまうほどだ。子どもの頃は普通に使っていたのに、差別的なニュアンスがあるからと言って、わざわざ別の言葉で置き換える必要があるんだろうかと思うのは僕だけだろうか(いや、そうではあるまい……)。
 話がそれたが、熱中症である。とにかく暑いったらない。いきなり梅雨明けして真夏になったせいもあって、健康な身体にも堪える。特に最近、冷房が普通になったせいもあって、建物や自動車から排出される熱気で街の温度が上がっているようだ。街中を歩くのも命がけみたいになる日も近いのだろうか。
 そういうこともあってか、いつも行く図書館は非常に混んでいた。タダでゆっくり涼める場所が少ないせいもあるのかわからないが、ともかく図書館はタダである。で、今日図書館に向かう途中、ハトが木陰に集まっている様子を見かけた。面白いので写真に撮ったが、カメラを構えた途端、ハトが大挙して僕のところに集まってきた。たぶん餌をやっている人がいるんだろう。おかげで、写真には3羽しか収まらなかった。写真で向こうに見えるのが図書館である。

   ヒトは図書館 ハトは木陰で 涼をとる

 遅くなりましたが、皆様、暑中お見舞い申し上げます。お身体には十分お気をつけくださいませ。

2010年7月、記
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「竹林軒出張所」選集

虫の歳時記

 僕は、自分が死ぬことには抵抗を感じていない方だと思うんだが、ただ殺人や虐殺などといった悲惨な死に方は嫌だと思う。
 だから幽霊とか怨霊とかの類には理解がある。残虐な殺され方をした人の気が晴れるなら、霊的なものでかれらの気が休まるなら、それはぜひこういったものがあってほしいと思う。ただ、僕に霊感というものが欠けているせいかわからないが、テレビで大げさに騒いでいるような「霊的なもの」を感じたことが今までほとんどない。「ほとんど」というのは、昔「怖いな」と感じたことがあるために使った言葉であり、要するにこちらの気の持ちようだと気付いてからはまったくそういうことがなくなったのである。もちろん、怨霊に出会いたいと思っているわけではないが、それで浮かばれない人が救われるのなら、亡霊も存在してほしいという気持ちは常にある。
 そういう人間なので、相手が虫であっても殺したり傷つけたりするのには相当気が引けるのである。蚊やスズメバチなど攻撃的な昆虫であれば、こちらも割り切って逆襲するが、特に攻撃性がないものについては極力殺生したくないと思っている。これは、僕が心優しく人道的であるためではなく、殺された虫を自分と重ねて見るようなところがあるためである。単純に、自分が虐殺されたくないから虫も虐殺したくないという、ただそれだけのことである。
 いつも活動している場所が半田舎みたいなところなので、死んだ昆虫を目にすることは比較的多い。のたれ死にした蝉などは天寿を全うしたみたいで「大往生」という言葉さえ思い浮かぶのだが、車にひかれてぺちゃんこになった虫は本当に哀れに感じる。僕自身、自転車に乗っているときに、目の前のバッタをよけようとしたにもかかわらず轢いてしまったことが過去何度かある。とても嫌な気持ちになるんで、今は徐行しながら車輪をバッタに極力近付けないように注意している。おかげでここ数年はバッタ轢き逃げ事故は皆無で、無事故優秀ドライバーとして表彰される日も近いのではないかと思っている。

秋になると、潰れたバッタが路上のあちこちに散らばっていて哀れを誘う。

   前に出て バッタバッタとひかれおり

 寒くなり始めてやっとバッタがいなくなったかと思うと、今度はカマキリが大挙して路上に押し寄せる。

   バッタ去り ひかれる主役 蟷螂(とうろう)に

 ある晩秋の日、スズメバチの死骸が舗装道路にポツンと落ちていて、少しドッキリとした。攻撃姿勢を保っているように感じた。

   武装せるスズメバチ 一人行き倒れ

 夏は夏で、川に敷き詰められた小さい舗道(サイクリングロード)に大量のミミズが死んでいる。少し前まで野原だったところで、ミミズにとってははなはだ迷惑な話だが、おそらく早朝、道の向こう側に渡ろうとして、のぼる太陽の光にやられたんだろう。どれも乾燥してしまっている。見通しが甘かったようだ。

   渡れると思ったか ひからびたミミズ

2010年12月、記
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