「差別語」は差別的か
最近、昔のドラマや日本映画を見ることが多いのだが、ときどき「きちがい」とか「おし」(うちのATOKでは変換すらできない)とかいう言葉が出てきて、見ているこちらが変に緊張してしまったりする。今のテレビ番組だと、こういう表現があれば断り書きが出るのだろうが、こうやってそのものズバリを指す言葉が、本当に差別的と言えるのだろうかと良く思う。何にしろ、「〜が不自由」で言い換えれば良いってもんじゃないだろうにと思う。以前、阿川弘之のエッセイで、小松左京が「俺のことを小松のデブと呼ぶな、腰回りが不自由な人と呼べ」と言ったとか言わないとかいう話が出ていたが、今の放送界はまさにこれに似たような状況である。
最近では「精神分裂病」という言葉までが「統合失調症」に置き換えられているとか聞くと、思わずなんだろなーと感じてしまう。「精神分裂病」と「統合失調症」とは言葉のイメージが全然違うんだがね……。
高田渡の「生活の柄」という歌(作詩:山之口獏)をNHKで歌えなくなったという話をなぎら健壱がライブで話していた(最後に出てくる「浮浪者」がひっかかるんだそうだ)が、詩人が作った文芸作品だぞ、NHKよ!と声を荒げたくもなる。
こんなことをしていると、物の名前だって、差別的な意味合いで使われるようになると、言い換えられるなんてことになりかねない。「豚野郎という言葉は相手をおとしめる差別語だ。これからは「豚」のことを家畜化猪と呼ぶことにする」なんてことになったら、誰だってアホかと思うだろう。
実際、いわゆる「差別語」といわれている言葉には必ずしも差別的なニュアンスはないのだ。要は(そのものズバリなので)差別的な表現に使われやすいと言うだけで、だからといって普通に使う表現を切り捨ててしまって良いものだろうか。差別的にしか使われない「ジャップ」とか「ニガー」とかいう言葉とは、性質上違うと思うんだがどうだろう。
そんなわけで今回、少し差別問題について考えるために『ちびくろサンボよ
すこやかによみがえれ』という本を読んでみたんだが、これについてはまた、別項に譲りたいと思う。今回は問題提起のみ。
投稿日: 金曜日 - 2 月 10, 2006 11:32 午後