モノのあふれた生活



うちの家は、公道に面しているせいか、やたらセールスが来て鬱陶しいったらありゃしないんだが、今日はなんと古紙回収の方が来た。
ドアを開けると、「古新聞とか古雑誌とか、持って行くものがあれば持って行きますが……」とにこやかにおっしゃる。
濡れ縁に古本や古雑誌をヒモでくくって積んでいたのが目に入ったらしい。引越しの準備で大量に出てきた古本の一部を、置き場に困って濡れ縁に出していたのだ。処分しようと思っていた本は大量にあったので、濡れ縁の分以外にも、部屋に積んでいたものも全部持って行ってもらった。中には、ナショナルジオグラフィック日本語版5年分(ほとんど読んでなくてものすごくキレイ)やキネマ旬報1月ベストテン号15年分なんかもあって、古本屋に持って行こうか図書館に寄贈しようか迷っていたものもあった(ちなみに図書館は、一般的に寄贈本をあまりほしがらないみたいです)。古雑誌でも愛着があるから、惜しい気もするがしようがない。増えるに任せていると居住空間がなくなる。
引越しの準備をしていると、本を含めて、あまりに多くのモノが家にあることにあらためて気づく。(日本では)モノの値段がやけに下がっているせいもあるが、とにかくなんでも買ってしまう風潮があちこちに見られる(ボクも含めてね)。ボクなんぞは、最近金回りが悪いので、新しいモノを買うのにかなり躊躇するようになったが、世間では、欲しくなると手に入れるという傾向が相変わらず続いているようだ。他人のホームページやブログを見ても、やたらにアレを買ったコレを買ったという記述があり、物欲の固まりと化している人が多いようだ。今みたいな金満のニッポンに住んでいると、モノをいっぱい持っていても、全然立派に見えない(それにうらやましくも感じない)。むしろ見苦しいくらいだ。次から次へと手に入れて、次から次へと捨てていく。ゴミはあふれ、処理できなくなる。こんな生活が本当に良いのですか。
毛皮のコートを着ている人を見るといつも、ある昆虫を思い出す。昔『おもしろい動物学』(ジーン・ジョージ著、現代教養文庫)という本で読んだだけなので詳しいことは忘れたが、南米だか東南アジアだかに生息する虫で、他の昆虫の体液を吸い尽くして殺し、その死体を装飾のように体にくっつけていくという(*)。これをいくつも体にくっつけた状態で活動するんだそうだ。こんな昆虫の話を聞くと普通は気持ち悪いと思うんだろうが、毛皮のコートなんてのも実は似たようなものなんじゃないか、とボクは思う。
で、今みたいにモノが周りにあふれて、いろんなモノをいつも身につけて行動するという形態も、この昆虫を彷彿とさせるところがある。時々街で見かける若い衆に、腰の鎖に大量の鍵をぶら下げ、ベルトにはケータイ、ポケットにはオーディオプレイヤー、手には装飾品、口にはくわえタバコ、鼻と耳にはピアスなど、あれやこれや身につけているのがいる。そんなに身につけたらさぞや重たかろうと思うのだが、モノを周りにくっつけることでアピールしているということなのだろう。例の昆虫と同じ。
ボクは今、引越しでモノをかなり片づけたために、周りにあまりモノがない状態で生活している。でも実際のところ、それほど不自由しないのだ。今ないものは実際のところあまり必要ないものだということが、こういうときにあらためてわかる。この際、持ち物を少なくしてシンプルな生活を目指そうと考える昨今。ただし大量に捨てるんじゃなくて、モノをあまり手に入れないようにするということ。物欲を放置してはいけない。

* アリマキクイムシ(アフォドライオン)という昆虫で、クサカゲロウの幼虫。

投稿日: 土曜日 - 3 月 05, 2005 11:35 午前          


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