今さらながら正月気分、および年頭の所感


 


皆様、ご無沙汰しています。今年もよろしくお願い申し上げます。
今年は、年末から正月にかけてバカに忙しく、元日も午前中少し休養した程度で、一昨日までずっと働きづめでした。途中、完徹した日もあったくらいで、忙しいにも程があるってなもんです。昨年は正月から数ヶ月暇で、おかげで家の中は火の車でしたが、今年は歳神様も舞い降りてくれれば何よりです。
昨年は、他にも嫌なことが大挙して押し寄せてくるような有様で、私も少しはその分謙虚さを学習することになりました。でもって、今年は正月行事をやろうということで、居間に鏡餅を飾り、注連飾りを玄関に飾るというようなことをして、歳神様を家の中に招き入れることにしました。私はここ25年ほど無宗教で(ま、今でも基本的にはそうですが)、こういう飾り物に意味を見いだせなかったので、自宅でこういうことをしたことはなかったのですが、今年は本当に心を入れ替えました。無宗教であるのは変わりありませんが、民間伝承や民間宗教はそれなりに大事にしようと思った次第です。
私の親も商売をやっておりまして、家には神棚があり、毎朝水をあげて拝むというようなことをやっておりました。もちろん正月にはあちこちに鏡餅を飾っておりました。商売人はこうでなければなりません。神仏に依存するのではなく、神仏を尊重することで自分の傲慢さを戒め、大きな力の前で謙虚さを磨くということが大事なのではないかと考えるようになりました、殊勝にも。神仏はともかく、自然に対して畏敬の念を抱くというのは誰にとっても重要なことではないかと思います。昨今は、なんでもかんでも破壊し尽くして、まさに天をも恐れぬ所行の数々が周辺、および世界中に散見されます。ああいう傲慢さは持ちたくないものであります。自然や、その象徴としての神仏を尊重することで、慢心を排除することが大事なのではないかと思います。
ちなみに鏡餅というのは、歳神(その年の守り神)が降臨する場所(依代--よりしろ)であり、またそれを食べるもの(神饌--しんせん)だそうで、鏡開きのあとにそれを食べることで神と同じものを食べる(「神人共食」(神と人が同じものを食べる))という連帯意識を得たのだろうということです(『サライ』2006年1月5日号より)。また注連飾りは、御神域、つまり結界を表す象徴であり、これも歳神が家に舞い降りていることをあらわすためのものだということです。本来、こういうことは親から子へ伝えられるべきことなんでしょうが、うちの親からはこういうことを教わっていなかったので、わたしのような不信心な人間が現れることになったのかもしれません。まあ、親の世代(戦中世代)も、伝統的なものの見直しが迫られていたようで、それで子供にこうしろとはなかなな言いづらかったのではないかと思います。いずれにしても子供には、伝えておきたいものです、こういう伝統行事の意味や意義は。

補足:ちなみにこの『サライ』2006年1月5日号は正月特集号で、正月の行事やなんかについていろいろ解説があります。ちょっとしたウンチク本ですな。なかなか面白かったです。こういう雑多な紹介の仕方は雑誌ならではという感じです。

投稿日: 月曜日 - 1 月 16, 2006 09:16 午後          


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