百円ショップを巡りながらこう考えた
(写真と本文は関係ありません。)
先日、ダイエーに掃除用品を買いにいったところ、同じフロアに百円ショップがあって、ついでにそちらも覗いてみた。で、驚いたのが、ほとんど同じような商品が1/2から1/3の値段で売られているということ。ずいぶん迷ったが、結局百円ショップの商品を買うことになった。どちらも中国製だったし、同じように安っぽい風情があったし(これは言い訳だが)。
しかし百円ショップでものを買うのは実際のところかなり抵抗がある。私は、モノには本来の対価があると思っている。価格破壊などといって本来支払われるべき対価が支払われなくなると、結局そのしわ寄せは自分のところに返ってくることになる。
たとえば、家電を量販店で買えば、近所の電器屋で買うより価格は安い。しかし、故障したらこちらで手配しなければならないし、場合によってはメーカーに送り返さなければならない。そんなわけで箱もとっておかなければならない。簡単な修理なども、懇意の電器屋さんであればチョチョッとできるが、メーカーに直接頼むとなると、宅配を手配したり何かと不自由なものである。
電器屋さんに支払うマージンを節約して、電器屋さんが商売できなくすることが本当に良いことなのか。それも時代の趨勢と言ってしまうことが正しいのか。
私も以前は、電化製品は量販店で買っていたが、ここ数年は極力懇意の電器屋さんから買うことにしている。ちょっとした修理でも頼みやすくなるし、保守の費用や故障時の送料、箱の維持費用などをトータルで考えると、結局安くつくんではないかとも思える。
今回も新居にBSを入れることはほぼ断念していたのだが、電器屋さんが、使っていないアナログBSチューナーをタダで譲ってくれることになり、アンテナ代だけでBSを導入できることになった(前も書いたが、アナログBSチューナーは現在販売されておらず、BSを見るにはデジタルチューナーが必要。これが5万円以上する)。したがってドキュメンタリー評も継続できることになった。メデタシメデタシ。
コストなんてのは、長い目で見なければ本当のところはわからないものだ。原発推進派が、原発はコストが安いなんてことをぬけぬけと言いはなっているが、核廃棄物の処理費用や今後数百年にわたる管理費用を考えると、コストが安いなんてことは口が裂けても言えないはずだ(コスト
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∞)。近視眼的にものを見ると正しいものが見えないのだ。
第三世界の商品を、買いたたくのではなく正当な対価で買い、生産者にも潤っていただき共存共栄をはかろうとするフェアトレードという運動がある。グローバリズムの対極にある概念であるが、売り手と買い手が共存共栄をはかるというのは、いたって自然で、結局はお互いのためになるんじゃないか。買い手が売り手を収奪してしまうと、売り手は事業を続けられなくなり結局取引が続けられなくなる。価格破壊はある意味でそういう現実を生み出しているだけだ。
どうして現代人は正当な対価を支払うことに躊躇しているのか。自分一人が栄えてもしようがないんじゃないか。モノには正当な対価を支払う。支払うだけの金を工面できなければ、端から買わないようにする。そういう生活を送っていれば、家の中にモノが異常に増殖することもないし、みんなが円満になる。
こういうようなことを百円ショップで考えたわけだ。
投稿日: 金曜日 - 4 月 08, 2005 06:32 午後