『ラスト・サムライ』に見る『逝きし世の面影』今さらながら、映画『ラスト・サムライ』を見た。
日本を舞台にしたアメリカ製の映画と言えば、かつてはどうにもデタラメなものが多く苦笑を禁じ得なかったが、最近は考証もしっかり行われているようで、考証面では日本製の時代劇とまったく変わらない。むしろ、大道具などに金がかかっており、ディテールが良くできている点で、今の日本の映画界ではこれだけのものは到底作れないのではないかとも思う。この映画で舞台となっている村も、おそらくセットを作って再現しているようで、かなりの予算がないとこれだけのセットはなかなか作れない。黒澤明が『乱』で城を作って見せたが(それでも予算オーバーだったようだが)、できあがった城のあまりのチンケさに日本映画の限界を感じたのは私だけではあるまい。その点、『ラスト・サムライ』の村のセットは良くできていた。横浜の港もセットで再現していたようだが、こちらもなかなか良い雰囲気を漂わせていた。ただこちらは少し全体的に窮屈すぎる(狭すぎる)ような印象があったが、そういう雰囲気を出したいという制作側の意図かも知れない。 実際、現在の日本では、時代劇のロケをしようと思っても、あらゆる場所で環境破壊が進んで、なかなか撮れなくなっているのだ。そのため、どうしてもセットをこしらえるかCGに頼るしかないのだが、(予算の関係で)なかなかリアルなセットは作れない。以前NHK大河ドラマの『武蔵』を見ていたら、公園の芝生(のような場所)に街道をこしらえていて、あまりのチャチさに笑ってしまったことがある。内田吐夢監督の『宮本武蔵』(1961年)を見ていたら、同様のシーンがロケで撮影されていて、しかもその風景が非常に美しかった。この数十年で失われたものの大きさに愕然とする思いだ(今はこういうシーンをロケで撮影できなくなっている)。また、映画版の『宮本武蔵』では、他のセットにもカネがかかっており、橋を(セットで)作って実際に川にかけているのではないかと思われるシーンもあった。現在の貧乏ドラマと黄金時代の日本映画を比べるのは酷と言えば酷だが、こんなに安直に作られた大河ドラマは、学芸会みたいに見えてしまう(役者の演技のレベルも学芸会並みだったが)。 さて『ラスト・サムライ』だが、ロケをあまり利用できないにしても、金さえかければけっこうなシーンを作り出すことができるということが証明されたわけだ(もちろんロケで撮れれば一番良いわけだが)。ただ、合戦シーンはゴルフ場で撮影されているようで、これは少し安っぽい感じがした。時代劇の映画やドラマで合戦シーンを撮る場合、大体決まった場所があるのだが(採石場や野原)、この映画ではスケールが大きすぎて、すべてが収まる場所というのが見つからなかったのかもしれない。だが、いくらなんでもゴルフ場はないだろとも思う。 この映画では、江戸時代の風情を賞賛するように美しく描いていたため、その点が非常に気に入った。実はそういう映画が作られないかとひそかに期待していたのだ。幕末から明治初期に日本を訪れた異人の何人かは、江戸時代の日本の自然を絶賛しており、著書に書き残している。物質文明化された西洋人(現代の日本人と接点があると思う)が、江戸の自然環境に触れて、物質文明とは異なる良さをそこに発見(!)しているわけだ(モースやイザベラ・バードなど)。その辺の著述をまとめたものに、渡辺京二著の『逝きし世の面影』という著書がある(私は4,200円で買ったのだが、今は安価になったみたいだ。でも4,200円で買うだけの価値はある、絶対)。決して江戸時代の日本が理想郷であったとは言えないが、少なくとも物質文明に生きる人々に驚嘆を与えるような存在であったことを強調している。 先日『百年前の日本 モース・コレクション[写真編]』という写真集を買ったが、やはりそういう「面影」は写真から伝わってくる。あのような自然景観は、今となっては破壊し尽くされて戻ってくることはないのだろうが、昔の映画(特に時代劇)を見たりすると、その面影をかいま見ることができる。だが同時に、その価値を知らず破壊の限りをしつくした、戦後の日本人の浅はかさにほぞをかむような思いもするのだ。 『ラスト・サムライ』でも、そういう「面影」を、ある程度かいま見せてくれる。最初に出てくる相模湾からの富士山の情景は、江戸末期に日本を訪れた異人たちが賞賛している美しい風景だ。おそらく、本作の脚本担当者は、そういう著書も目にしていたものと思われる。「逝きし世」を再現しているという点で、この映画は一見の価値がある。映画としても全体的に良くまとまっていて、好感が持てた。 投稿日: 月曜日 - 9 月 26, 2005 06:15 午後 |