音楽のリサイクル先日昔のドラマ(1971年TBS作の「日曜劇場・父」、脚本は山田洋次)を見ていたところ、登場人物が「早春賦」を歌っていると、途中から「知床旅情」に変わってしまうというシーンがあった。つまりこういうこと。「たに〜のう〜ぐい〜す、うた〜はおぼえど〜」に続いて、「のんでさわ〜い〜で、おかにのぼれば〜」となる。
最近読んだあるミニコミ誌のマンガでも、「早春賦」が「知床旅情」のパクリだという記述があって、そのとき初めて気づいたのだが、確かによく似ている。というか、これは完全にパクリだと思う。ちなみに「早春賦」は中田章作曲、「知床旅情」は森繁久弥作曲である。まあ、森繁久弥は音楽家としては素人みたいなものなので、ある意味替え歌と考えることもできる。許容範囲か……。 「浜辺の歌」の冒頭が「峠の我が家」の冒頭に似ているのも有名だが、これも1小節くらいのことなので問題はない。 しかしここ20年ほどの日本音楽界のパクリの横行は、少しひどすぎないか。ネットでもいくつか話題になっているようだが(「オレンジレンジ」が話題になっているが、これがグループ名なのか曲名なのかよく知らないのでコメントできない)、実のところ、どこかで聴いたような曲は非常に多い。最近の日本の流行歌(J-POPなるもの)はほとんどそうだと言っても良いくらいだ。もちろん意図的にパクったか、頭の中にメロディが残っていただけかは判断できんが。意図的にやっていなければパクリと決めつけることはできない。もちろん、いずれにしても音楽家としての才能には大きな疑問符が付くところだが。 小林亜星が服部克久をパクリで訴えたのは記憶に新しいが(小林亜星さん勝訴…服部克久さんに損害賠償命令(サンスポ.com))、そのときも亜星氏は記者会見で、最近の日本の音楽界でパクリが横行していることを訴えていた。 個人的には、流行歌のパクリが横行し始めたのは80年代だと思っている。コマーシャルソングが流行し、耳障りの良い歌ばかりがヒットするようになったのはこの頃だ。だが、この「耳障りが良い」というのがくせ者なのだ。ある曲を初めて聴いたときにどこかで聴いたことがあると感じた場合、かなりの確率でその曲に対して親近感を憶える。顔が知人や芸能人に似ている人に親近感を憶えるのと似ているのかも知れない。大勢が親近感を持てば、間違いなく大ヒットにつながる。コマーシャルと提携することでヒット曲をとばすという手法もこれを応用したものだ。意識しないで何度もコマーシャルで耳にしていれば、どんな曲であっても、そのうち「どこかで聴いた」曲になる。以前の曲をパクれば、新しい曲を考えるというやっかいな手間が省ける上、こういう理由で成功につながりやすい。そういうことであれば、安易な人間はすぐにそちらに走るだろう。 しかし、「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえ通り、安易な方法が流行れば本物はやがて廃れてしまう。やがてオリジナルの曲をしっかり作るだけの技量を持つ人が日本の音楽界から姿を消すというわけだ。それが今の状況。 たまに後学のためと思ってテレビの音楽番組を見たりすると、安易な(おそらくどこかでパクったであろう)メロディが次から次へと姿を現すのに驚く。いくらリサイクル流行りっていっても、音楽までリサイクルしなくても良さそうなものだが……。 日本の商業音楽界の前途は暗い。 追記 80年代を代表するヒットメーカーにサザンオールスターズが挙げられるが、サザンオールスターズの「YaYa」(桑田圭祐作曲)は「虹と雪のバラード」(村井邦彦作曲)にそっくりだ(初めて聴いたとき「虹と雪のバラード」のパロディかと思ったぞ)。この歌はいまだにメロディ面が高く評価されているようだが。「いとしのエリー」や「花咲く旅路」も、最初に聴いたときどこかで聞き覚えがあるような気がしたが、いまだにわからない。ひょっとしたら、単にそう思っただけかも知れない。ちょっと曲作りが安易ではないかと感じているのでここに書いておく。 投稿日: 水曜日 - 4 月 20, 2005 06:52 午後 |