思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける(大宅世継)

批評、随筆、芸術のアーカイブ・サイト……竹林軒

少年画報からサライへ -- 空想的懐古主義 --

『少年画報』というのは、昭和23年から昭和46年に発行された雑誌で、当初は読み物主体だったのだが、時代の趨勢を受け、だんだんと漫画主体に変わってきた。私の場合、床屋さんとの関連で、昭和40年頃から廃刊時まで愛読していた……

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本にまつわるあれこれ

本屋に行ってみると、あまりのレベルの低さに驚く。本屋で売られている本の9割はゴミだというのが私の持論だったが、現在では9割5分くらいまではゴミだと断定できる……

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明快な本

あるものごとに対して、標準となる見方を提示する(横文字を使うのは嫌だけど強いて言うなら「スタンダードなパースペクティブを与える」ということになるか)本というのは、希少であるが、非常に価値が高い……

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値段設定

しかし品切れになっているからといって法外な値段で売るのは正直全然感心しない。もちろん古本屋さんの商売を否定するわけではないが、絶版になって10年、20年とかの本ならいざ知らず……

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福岡正信はこう語った

福岡正信は超人である。超人という言葉が似合うと言えば、スーパーマンとツァラトゥストラを除けばこの人くらいしかいない……

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古典的落語家についてのよもやま話

『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』という本が近所の図書館に置かれており、前々から気になっていたのだが、このたび借りてきてようやく読み終わった……

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2005年10月12日、記

少年画報からサライへ -- 空想的懐古主義 --


 行きつけの喫茶店で『サライ』という雑誌をもらうことになった。
 『サライ』は、小学館の隔週総合雑誌で、40〜50代の小金を貯めている中壮年男がターゲットらしく、なかなかプチブル的な企画が多い。広告も、車、家、高級電化製品など、値の張るものが多く、私のような貧乏人は「ヲイヲイ」と思うことも少なくない。この間なんか、トイレのリフォームの特集をやっていた。家作りの雑誌じゃないっちゅーの。
 なんでも、この『サライ』、今年は、京都特集が3回、銀座特集と奈良特集がそれぞれ2回ずつあったらしく、その喫茶店のマスター氏も「そろそろやめよかな……」と言っているほどだ。確かに京都特集は、どれも同じようなものばかりで安直だった。ただ今月の奈良特集はそれほど悪くなく、なかなか良いのではないですかと言ったら、「それじゃ次の号が出たら今号をあげます」ということになって、いただくことになった。買うつもりだったんだが、せっかくのご厚意を無にするわけにはいかぬ。小学館は「630円の損害」である。
 子供の頃、行きつけの床屋さんで、店に置いていた漫画雑誌をときどきまとめてもらうことがあった。ウチは私を含め子供が3人いて同じ床屋さんに通っていたので、サービスも兼ねて古雑誌をくれたのだろう。もちろん最新刊はくれない。それでも子供心にうれしくて、新聞紙で包まれた漫画を持ち帰るとき、うきうきしたことを憶えている。このときの漫画雑誌が『少年画報』である。
 『少年画報』というのは、昭和23年から昭和46年に発行された雑誌で、当初は読み物主体だったのだが、時代の趨勢を受け、だんだんと漫画主体に変わってきた。私の場合、床屋さんとの関連で、昭和40年頃から廃刊時まで愛読していた(はず)。「はず」というのは、何年くらいから読み始めたのか、憶えていないためである。
 先日、図書館に行っているときににわか雨が降り出し、それで雨宿りもかねて本を物色していると、『少年画報大全』という本が目にとまった。で、その「何年から読み始めたか」を推理するため、いろいろと調べたわけである。この本は少年画報社が発行しており、「まだあるのか、少年画報社!」と感心もしたのだが、『少年画報』の内容についてかなり詳細に記録している。巻末には、年表形式で他の漫画誌との比較が載っており、資料的な価値もある。
 『少年画報』で昭和40年前後に連載していたのは、主なところでは、「怪物くん」(藤子不二雄作)と「マグマ大使」(手塚治虫作)だ。テレビ放送はどちらも同時代で見た記憶はあるが、テレビより先に漫画を読んでいたかどうかは記憶にない。41年から42年になると、表紙にテレビ版の「マグマ大使」が再三登場しているので、テレビ放送が始まったのはこの頃だと思われる。42年になると「怪獣王子」なんちゅうもんが表紙に登場する(「怪獣王子」では、首長竜に乗った子供がブーメランで敵を倒すという、「怪傑ライオン丸」もさながらのワンダーランドが展開する)。「怪獣王子」は、もともと『少年画報』に連載されており、テレビ放送が始まるときに、私の兄(小学校低学年)の周辺で「テレビになった」ことが話題になったので、おそらくこの頃、私の兄およびその友達は『少年画報』を読んでいたようだ。とすると、兄と同じ床屋さんに通っていた私もすでに『少年画報』を読んでいた(というより見ていた)可能性が高い(ちなみに「怪獣王子」は42年初頭に『少年画報』で連載が始まり、10月にテレビ放送が始まっている)。
 はっきりと『少年画報』で漫画を読んでいた(というか見ていた)記憶があるのは、「コンピューたん」(ジョージ秋山作)、「キックの鬼」(梶原一騎、中城けんたろう作)、「日野日出志のショッキングワールド」(日野日出志作)などで、このあたりは44年から45年頃だ。それに45年の第7号の表紙写真(アントニオ猪木がボボ・ブラジルにコブラツイストをかけている写真)ははっきりと憶えている(この号は床屋さんからもらって帰った)ので、44年以降は間違いないところだ。おそらく、42、43年頃から廃刊時までというところか。45年連載の「ヒトモドキ・ヒョウタンゴミムシ」(ジョージ秋山作)は今でも冒頭のシーンをはっきり憶えているくらい何度も読んだ記憶がある。
 しかしまあ、この本のように年代順に雑誌の変遷を見せられると、なかなか昭和という時代が見えてきておもしろい。
 特に昭和39年の表紙は、全12号のうち8号分は戦争ものである。のちにテレビ版の「マグマ大使」に出演しフォーリーブスのメンバーとしてアイドルになる江木俊夫が、戦艦をうしろにして、「大日本帝国海軍」の帽子をかぶり手旗信号を振っている写真が新年号の表紙で、2月号はパイロット姿の江木俊夫、背後に零戦というものである。6月号は、今まさに零戦に乗り込まんとする江木俊夫飛行士、5月号は、大日本帝国軍の戦車に乗り込み、日本刀を振り上げる江木俊夫兵士である(おーこわ)。確かにこの時代は、戦争物の漫画が多かったような記憶がある。「0戦はやと」(少年キング連載)もこの頃だもんな(ちなみに作者の辻なおきは当初、『少年画報』で「0戦太郎」というものを連載してその後「0戦はやと」の連載を始めたらしい。「0戦太郎」についてはまったく記憶にない)。今こういうことを漫画雑誌でやったら大問題になりそうだ。大体、今だとしゃれにならないし。
 ともかく、こんなあんばいで、昔を懐かしんでいたわけである。
 それでふと思ったのだが、今から30年くらいして『サライ大全』みたいなものが出たときに、それを見た元サライ読者はどう感じるだろうか、ということ。安直で軽佻浮薄な時代を感じとるか。それとも過剰な商業主義に吐き気がするのか。確かにノーテンキな今という時代を反映している雑誌ではある。
 あ、そうだ、30年後は読者のほとんどは墓場に片足つっこんでるよな、私も含めて。

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2005年9月27日、記

本にまつわるあれこれ その1
副題:誰が本を殺すのか……あ、オレか……


 「本が売れなくなった」とか「若者の活字離れが嘆かわしい」とか言われる昨今。だが若者はいつもケータイでメールを利用しており、我々の若い頃よりもむしろ活字依存を深めているのではないかと思う。本が売れないのはくだらない本が多いからだ。
 本屋に行ってみると、あまりのレベルの低さに驚く。本屋で売られている本の9割はゴミだというのが私の持論だったが、現在では9割5分くらいまではゴミだと断定できる。どうしてこういう劣悪な企画の本を作ってしまうのか、出版担当者に訊きたいくらいだ。
 私が学校を卒業した頃(今から20年ほど前)、マスコミ関係業種がちやほやされて、大卒者の人気職種の上位にマスコミ関連が君臨していた。で、当然、成績優秀者がマスコミに集まることになる。結果的に、こういうエリートさんの作る、当たり障りのないくだらないものが、蔓延するということになる(以前、放送のところでもこんなこと書いたような……)。それに加えて、企画力の貧困さは目を覆うばかりだ。貧困な企画力しか持っていない者が企画の主導権を取ろうとするから、ろくなものができないのだ。日本の映画産業も同様だ。ある映画会社では、営業サイドが製作に深くコミットしているので、つまらないものばっかり作っている。よくシラフでこんな企画通すよなというようなものが多い。製作は製作サイドにまかせておけと言いたい。
 とは言うものの、ゴミ本だらけの現状でも、中には良い本もあるもので、そういう本を求めて漁っているわけだ。ただ、本屋で面白そうと思って衝動買いしてみても、その多くは、ゴミだったりするわけだ。これは宣伝部の勝利(あるいは謀略)ということになるか。でも買う方は、そう何度もだまされたら、もう金輪際だまされないぞと思うわけだ。そんなわけで、良識のある読書人はどうだか知らないが、私は本を買わなくなってしまった。正直、今の日本の出版状況に絶望しているわけだ。興味のある本はとりあえず図書館で借りて読んでみる、面白かったら身銭を切って買う、と、こういう手順を踏むようになった。こうすると、くだらない本が家に増えることもないし、金を無駄使いすることもないし(「本日記」で★4つ付いているものは大抵買ってます、意外に思われるかも知れませんが)。
 そういうわけでお奨めです>図書館。
-- 「その2」に続く --

2005年9月28日、記

本にまつわるあれこれ その2
副題:誰が本を殺すのか……やっぱオレか……


 「本は買うもの」と思っていたので、図書館で本を借りて読むという習慣は、つい最近までまったくなかった。実際、たまに借りても読まないことが多かった。図書館によく行くきっかけになったのはCDだ。近所の図書館は、CDのラインナップが非常に充実しているので、これを当初からよく利用していた。結果的にこれが図書館の敷居を低くすることになったわけだ。図書館側の戦略としてこれは正しかった。図書館には利用者を増やすという目標があるため、どういう形であれ、(私のような不埒な者であっても)利用者が増えることは、図書館の目的にかなっている。


『だれが「本」を殺すのか』(佐野眞一著、プレジデント社)で、図書館が「ハリー・ポッター」などの人気新刊書を大量購入することの非を説いていたが、図書館のこういう方策は「図書館の敷居を低くする」という意味で理にかなっていると思う。この本では、「そういうことをするから本が売れなくなる」という主張のようだが、大量購入するような本はそもそも売れている本なのに、一般的にあまり売れないような本と混同するのは間違いだ。私は、昨日も書いたように、本が売れなくなったのは、(全体としての)本の質の低下が原因だと思っている。何かをスケープゴートにするという方法は実に安直かつ短絡的で、図書館をターゲットにするのは議論として単純すぎる。まったくもってお門違いだ。ベストセラー本など、買う人であれば、たとえ高くても買うのであって、図書館でベストセラー本を読むような人は、本来であれば買わない人々である。その人々の分を図書館が代わりに購入しているのだから、ある意味、売り上げに貢献しているとも言えるのだ。
 たとえ良い本が出されてもすぐに絶版になるような風潮も考え物である。1・2年前の本が手に入らない現状は相当異常だ。以前は絶版や品切れになっても読者側はあまり気がつかなかったのだろうが、現在のようにインターネット(Amazonなどのデータベース)で在庫状況を調べられるようになると、出版社側の無責任な売り方が目につく。で、読みたいが手に入らない本はどうするかと言えば、古本を獲得するか図書館を利用するということになる。もっとも古本を買うにしても、供給がなければ手に入らないので、一番手っ取り早い方法として図書館に向かうことになる。それに図書館では大概の本が備蓄されている(最近、その事実にあらためて驚いている)。ますます図書館の価値が高くなるというものだ。
 出版社側にも、売れない本の在庫を抱えたくないなどの事情はあるのだろうが、いったん売りに出したらある程度の期間継続して在庫を確保するという職業的な倫理は必要だと思う。ゴミのような本を大量に出して、しかも(良書まで)すぐに絶版にしてしまうような出版業界にはまったく共感を覚えない。スケープゴートをあげつらうよりも、自分たちの足下をしっかり見据えた方が身のためだよ。> 出版関係の人々

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2005年8月23日、記

明快な本


 先日『靖国問題』という本を読んだが、靖国神社関係の問題をあまりに明快に解説していたので感心した。
 靖国神社肯定派の意見は、感情的に語られるだけで正直うんざりするし、まったくもって説得力に欠けている。反対派も問題点を明確に指摘することがあまりなく、要するにこちらも感情的に語ってしまう。感情と感情がぶつかり合えば、何の結論も出ないのは火を見るより明らかだ。この本では、肯定派の主張を批判しながら、その理由を明快に述べ、どこに問題があるか整理し、最終的に一定の考え方を提示している。非常によくまとまっており、書物として優れている。
 あるものごとに対して、標準となる見方を提示する(横文字を使うのは嫌だけど強いて言うなら「スタンダードなパースペクティブを与える」ということになるか)本というのは、希少であるが、非常に価値が高い。特に感情だけで語られることが多い政治問題などの場合はなおさらである。
 同じように政治問題に一定のパースペクティブを与える本として、『年金不安50問50答』がある。1問1答形式で年金問題を整理し、最後に著者の考える年金モデルを提示している。ややこしい年金問題に対して一定の見方と方向性を与えてくれる良書だ。
 最近読んだ亀山早苗の不倫本も、明快なパースペクティブを与えてくれる。著者は、不倫に対して「不倫を勧めはしないけれど否定もしない」という立場を貫いているが、「当事者は事故にあったようなもの」であるため「当事者の配偶者は絶対に自分を責めてはいけない」ということを繰り返し主張している。この間、図書館で『今週妻が浮気します』という本をとばし読みしたのだが、結果的に亀山早苗が提示したパースペクティブの正しさが証明されているような内容だった。この本は、OKWeb(相談サイト)の書き込みをそのまま本にしたもので、妻の浮気に気付いた夫がどうしたらいいか意見を衆目に求めるところから話が始まる。それに対して、他の人々がいろいろ意見を述べていき、同時進行で妻と対峙していくのだ。他人の意見なんて勝手なもので、「(この当事者の)妻は心の中で夫のことをバカにしているからすぐに別れろ」とか「多大な慰謝料を請求しろ」とか、まあ好き勝手なことを言ってるヤツがいるんだ、結構(中には非常に素晴らしい意見もあります)。で、私は、亀山早苗パースペクティブの影響を受けているから、「夫と妻の間に誤解があって、妻が何か夫に対して不信感を持っている。決して離婚を望んでいるわけではないから、その点をつつがなく話し合って、それで元のサヤに戻れるものなら戻った方が良いんではないか」とこう考えながら読み進めていったわけだ。結果的にどうなったかここでは書かないけど、やはり、この見方は大筋で間違っていなかったということがわかる。そりゃ、人によっては離婚を望んで破滅的な気持ちで不倫する人もいるだろうが、何か問題を抱えていてそれが引き金になっている場合が多いということを、亀山本で学習したわけだ、私は。ちなみに『今週妻が浮気します』の内容はOKWebで読むことができます(こちら)。
 何にしろ、明確な見方を提示してくれる本というのは素晴らしい。それ1冊読むだけで、ものごとの問題点を理解した上で、標準となる見方を獲得できるんだから。もちろんどの情報を取捨選択するかは読者の責任だ。その見方が信頼に値するかどうかは、読む方が判断しなければならない。同様の「パースペクティブ」本として、他にも『邪馬台国はなかった』『サーロインステーキ症候群』『大江戸エネルギー事情』などを、(個人的に)お奨めしたい。そしてどの本にも共通することであるが、提示される結論は意外に単純である。もちろん、こういった本を読んでも、ものごとの見方は固定すべきではないが、自分の中に基準を作ることができれば世界は確実に広がると思う。どうですか?

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2005年6月19日、記

値段設定


 前回紹介した『校庭の雑草図鑑』(上赤弘文著、佐賀県生物部会編)について。
 この本は定価2,000円だが、Amazonでこの本を検索してみると、「ユーズド商品」(つまり古本)として、3,000円、4,199円の値段がつけられたものが売られている。「ユーズド商品」というのは、個人や古書店が出品するもので、「ネットオークション」に近いものだ(ただし値段は固定)。時折、在庫切れや絶版本に法外な値段をつけて売っている売り手がいて、「足元見やがって」とこちらはキリキリするのだ。以前、欲しかった高田渡のCD『渡』(現在品切れらしい、Amazonによると)に10,000円の値段が付けられていて、コノヤローと思ったのだが、それがすぐになくなった(売れた?)んで二度ビックリだった。ところが先日、このCDがとあるショップで定価販売されていた。もちろん速攻で買った。なんでも、そのショップによると「品切れ」ではないらしいんだ、これが。なんだかよくわからないが。
 閑話休題。『校庭の雑草図鑑』だが、これは現在、定価で購入できる本である。おそらくこれも「品切れ」の時期があり、それでこういう値段をつけた業者が現れたんだろうが、その後、増刷されたかなんかでこういう逆転現象が起こったのではないかと思う。定価で新刊本が手に入るのに、わざわざ倍以上の値段の古本を買うような人はまずいないだろう。この業者もそろそろAmazonをチェックして値段を変えた方が良いんじゃないのと老婆心ながら思う。
 しかし品切れになっているからといって法外な値段で売るのは正直全然感心しない。もちろん古本屋さんの商売を否定するわけではないが、絶版になって10年、20年とかの本ならいざ知らず、数年前に出た本やCDにプレミアをつけるなどというのは、少し人間性を疑ってしまう。「そんなにしてもうけたいかよ」と思うわけだ。この間読んだ『駆け出しネット古書店日記』で、古書店主になった著者が「この値段設定が気に入らないなら買うな」というようなことを書いていた。私は思わず「ハイ買いません」と突っ込みを入れた。
 Amazonで検索すると、品切れになっているのがすぐわかるんで何だが、ちょっと最近の品切れ度はひどすぎやしませんか。1年前、2年前に出た本やCDが品切れ(その実、絶版)というのは問題ありだ。出版者側が余剰の在庫を抱えたくないのはわかるが、出版してたとえば5年間くらいは、維持していく責任が道義的にあるんじゃないかと思う。家電メーカーだって、製造開始から5年間は部品を確保しておかなければならないはずだ(義務を果たしていないメーカーも中にはあるが)。もし維持できないんだったら、版権を他社に格安で売らなければならないとか、ある程度規制して欲しいくらいだ。
 大手CD版元のエイベックスとAmazonが共同で、URC(アングラ・レコード・クラブ)のレコードをCDという形で復刻したのは、2003年末だ。私は2004年にそのうちの数枚を買おうとしたが、なんと品切れ! エイベックスもAmazonも業界では大手じゃないか。なんで1年で品切れなんだ。そういういい加減な態度でCDを出すのなら、最初から他の(もっと良心的な)メーカーに版権を譲って欲しいものだ。エイベックスなんて、そもそもCDにプロテクトをかけるような、悪名高いメーカーだ。URCの音源といえば、ある意味、日本人共有の財産に近い。エイベックスがURCのレコードを復刻するというのが、そもそも一種の形容矛盾のようなものだ。
 それでまあ、こういう良心のかけらもない版元が増えるから、良心のかけらもない値段設定がはびこると言いたいわけだ。
 CDや本を出品する人には、良識をわきまえた値段設定をして欲しいものだ。

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2005年1月27日、記

福岡正信はこう語った


 昨日、『自然農法 福岡正信の世界』というDVDを見つけ、即購入した。
 福岡正信という人をご存じだろうか。
 福岡正信は超人である。超人という言葉が似合うと言えば、スーパーマンとツァラトゥストラを除けばこの人くらいしかいない。
 自然農法を提唱する人(某宗教団体でも「自然農法」という用語を使っているがそれとは別物)で、同時に実践家でもある。
 簡単に言えば、野菜や穀物や果物は、それ自体に生長する力があるので、農薬をかけたり耕したりせずに、ほとんど人力を加えず、自然の摂理に任せれば、一定の収穫が得られる、というもの。実際にこの人は、愛媛の、かつてミカン畑だった山を自然農園に変貌させ、果物がそこらへんに転がるように生えている状態を作り出している。
 15年ほど前、この人のことがNHKの「にんげんマップ」という番組で紹介されているのを見たとき、あまりの衝撃に私はぶっ飛んでしまった。その後、何冊か著書を買って、いつかは自分でも自然農法を実践してみたいなどと思っていたのである。
 この人の著書に感銘を受けた人は世界中にいるらしく、いろいろな国から彼のもとへ修行に来ているようだ(著書「わら一本の革命」もいろいろな言語に翻訳されているらしい)。日本より他国で名前が通っているのかも知れぬ。まさに「世界の」マサノブ・フクオカ!(こういう書き方、嫌いなんだが)
 ギリシャのはげ山の緑化に携わっているあるギリシャ人は、福岡氏の粘土団子方式を使って成功しているらしい(テレビ朝日系のテレビ番組「すてきな宇宙船地球号」で紹介されていた)が、このギリシャ人も福岡氏のもとで修行していたと言っていた。




不耕起農法を提唱している川口由一という人も感銘を受けたらしく、数年間トライしたそうだが、うまくいかず、独自の方法にアレンジしたという。岩沢信夫という人も同じようなことを言っていた(福岡式自然農法は、福岡氏によるとそれほど難しいことではないそうだが、実際に同じ方法でうまくいったという人はあまりいないようにも思える)。
 このように、福岡氏は農業や環境面で大変大きな影響を及ぼしている。
 「にんげんマップ」を見たときは、ビデオで撮っていれば良かったと悔やんだものだ。なんせ映像で見るのが一番説得力がある。映像を見たいとずっと思っていたのだ。そんなときにこのDVDだ。
 今回、春愁社は、これまで品切れになっていた同氏の多くの著書も再発した。私が古本屋を探し回ってやっと手に入れたものも出た。そういう意味では、少し悔しい……。最近の出版状況で、絶版や品切れの多いのにはずいぶん憤っていたが、春秋社はきちんと出版社の責務を果たしていると言えるだろう。春秋社エライ。
 福岡式自然農法は、次世代に伝えていくべき日本の財産である。

その後の追記(2005年1月31日)

 前回紹介した福岡正信のDVDには、少し失望した。全編インタビューで、期待していた自然農法や農園の映像はほとんどなかった。もちろんインタビューはそれなりに面白いが。ただインタビューだけなら、何もDVDにする必要はないんじゃないか?!と春秋社にかみつきたくなるところだ。

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2005年2月27日、記

古典的落語家についてのよもやま話


←初代快楽亭ブラック


『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』という本が近所の図書館に置かれており、前々から気になっていたのだが、このたび借りてきてようやく読み終わった。「映像・本日記」のところでも書いたが、初代快楽亭ブラックの実声は、『全集・日本吹込み事始』および『日本吹込み事始』(ダイジェスト版)というCDで聴くことができる(先日、図書館で借りました。現在絶版だそうで……)。このCDシリーズは、ガイズバーグというグラモフォンの技師が、20世紀初頭に世界中でさまざまな音源を収集した、世界最初期の録音をCDに復刻したものだ。エンリコ・カルーソーのオペラ・アリア集がBMGから出ているが、これも最初期のものはガイズバーグが録音したものだそうだ。
 『全集・日本吹込み事始』には、三代目柳家小さんや四代目橘家圓喬の落語も入っている。三代目柳家小さんといえば、内田百間の随筆に良く出てくる噺家で、やたら「小さんを聴きに行った」などの文章が出てきて、私などは「五代目小さん」をイメージしていたが、実際に聞いてみると五代目とはまったく違って、立て板に水でまったくよどみなくなかなかの名調子である。内田百間が気に入るのもうなずけるというものだ。一方、四代目橘家圓喬は、五代目古今亭志ん生の師匠筋に当たる人で、たしかに志ん生の話しぶりを彷彿とさせるところがある(志ん生が圓喬を彷彿とさせるというのが正しいのでしょうが)。
この録音に残されている芸人は(少なくとも噺家については)なかなかそうそうたるメンバーで、前著『快楽亭ブラック』によると、なんでも快楽亭ブラックが自分のコネを駆使して録音現場に呼んできたらしい。ブラックが、当代最高の芸人と考えた人々を集めたということだ(ギャラはかなりピンハネしたらしい)。
 ガイズバーグの録音で唯一残念なのは名人・三遊亭円朝の録音がないことだ。録音が行われた1902年には、円朝はすでに死んでいたので致し方ないのだが、もう数年だけ前後すれば録音が残っていた可能性があることを思うと返す返すも残念。三遊亭円朝といえば、もはや歴史上の人物で高校の日本史の教科書にも載っているほどだが、英国の小説などを翻案して寄席にかけていた快楽亭ブラックが、同様に西洋文学を翻案していた円朝と人気を二分していた(前著による)というのもなかなか興味深い。
 話は変わるが、先日、やはり図書館で借りた『小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄 二』に「猫じゃ猫じゃ」が入っていて、初めて聴いた。記憶は曖昧なのだが、夏目漱石の『吾輩は猫である』の中で、子どもが「猫じゃ猫じゃ」を歌う場面が出てきて(と思う)それがずっと頭にこびりついていたのだが、それを初めて歌として聴いたわけだ。こういう古い歌をCDで聴けるというのもずいぶん贅沢な話だが、あまり借りる人もいないようで、CDの録音面は非常にきれいであった。図書館のCDと言えば大体傷だらけなのだが、こういうものの価値はよっぽどのマニアでないとわからないのだろう(私はマニアではありません)。
 快楽亭ブラックといえば、現在二代目を名乗る人がいるらしく「へえ」と思っていたが、よくよく調べてみると、映画マニアで有名だった(元)「立川談とん」であることがわかった。一風変わった映画評論をする人で、ポルノ映画などについても評論していた(今もやっているようです)が、私から見ると「ちょっとピンぼけ」な感じがする(映画評などというのは評者と趣味が合うかどうかだから……)。(私の記憶が確かならば)名前も始終変えていたという印象があり、たとえば立川レフチェンコなどとふざけた名前もつけていた。ちなみにレフチェンコとは、当時日本で暗躍したソ連人スパイ(その後アメリカに亡命)である。その後立川談志に破門されたという話を聞いたが、真偽のほどはさだかでない。だがその後も健在で、やがて真打ちに昇進して、二代目快楽亭ブラックを襲名したんだそうだ。なにやら懐かしかったんで、快楽亭ブラックつながりでここで紹介してみた。

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